除夜の鐘は、どうして108回なのか?
「なぜ、除夜の鐘は108回なの?」
「それはね、人間は108の煩悩を持っているからさ!」
「煩悩って何?」
「そうだね。人間が持っている欲望・執念・恨みとかいうものだね」
「年末と年始にかけて、この煩悩を清め洗うための鐘が108なんだよ」
「ところで、108の中で、一番厄介な煩悩が3つあるんだよね」
「貪(どん)・瞋(じん)・癡(ち)というんだけど、仏教ではこれを『三毒』というんだ」
「人間の諸悪とか苦しみの根源にあるというものだよね」
「貪」(どん)は貪欲ともいうけれど、〝むさぼりの心”を指すといいます。
「瞋」(じん)は〝怒りや憎しみの心”で、アンガーです。
「癡」(ち)は〝愚かで無知”のこと。
この中で、一番奥にあって厄介なのが「瞋」です。
アンガ―は、人間の存在にかかわる「瞋」にかかわりますから、これを克服しようとして、禅寺に入って修行する人がいるのですね。
『三毒』は毒蛇や毒龍のようなもので、いつでも首をもたげて、人間の善の心を崩してしまうから、克服しなければならないというのですよ。
三毒を克服するには?
ではどうしたらいいのですか。
そうですね。
仏教では、これを克服するには「相手の立場に立って、愛情をもって接することだ」というのです。
これは、アンガ―・マネジメントの根本に通じるものですが、なかなかの難敵ですね。
怒りを鎮めるのに必要なものは『慈悲の心』だというのですよ。
わかりやすく言えば
「慈」とは、いつくしみのこころです。
いいかえると、相手を非難したり、否定したりせずに、素直に接することだというのです。
「悲」は憐みのことです。
わかりやすく言えば、相手のいうことをしっかり聞いて、アンガ―に陥りやすい心をコントロールすることが大切だというのです。
慈悲は西洋的な『Love』とは違います。
もう少し深い意味で「生きとし生けるもの全て」に対する眼差しともいえますね。
生命あるものに対する根本的な在り方・姿勢です。
アガペー(agape)とは、キリスト教でいう[神の愛]のことをいいます。
慈悲とアガペー(agape)は違います。
これについては、改めて書くことにします。
怒りは「瞋」に属するもので、もっとも扱いにくいものです。
これは「生きるエネルギー」のようなものですから、否定するものでも、テクニック・マネジメントで操作できるものでもなく、「修行」を重ねることによって「克服」するものです。
これが禅でいう「自律」でもあります。
ちょっと難しくなりましたね。
自律と他律、受験生はどちらが大切!?
京都の禅寺を訪ねたら、出迎えてくれた人が外国人だったことがあります。
彼は数年前からここで座禅を組んで修行しているというのです。
失礼かなと思ったのですが「なぜこの寺で、修行しているのか」と聞いてみました。
すると、いろいろなことを話してくれた。
ヨーロッパのある国に生まれた彼は、敬虔なクリスチャンだったそうです。
大学生だったので、いろいろな国を旅して日本に来たのですが、たまたま、友人が紹介してくれて「座禅」を組む機会を得たのだそうです。
禅を組んで、いままで経験したことのない落ち着きと安らぎを覚えたのだそうです。
一端帰国して、再度日本に来た理由は、参禅の経験が忘れられなかったからだといいました。
今、世界中でいろいろなことが起こっているけれど、自分は「人間の内面を強化する」ことで克服できると信じて修行しているのだ、というのです。
彼の場合は、まさに自律(自分をコントロールする)です。
キリスト教は徹底した「他律」の世界ですから、彼が求めたものとは異なったのですね。
坐禅は、徹底した克己心を追及する世界です。
ちなみに、受験は「自律」です。
他律では狭き門を通ることができません。
甘えを切り捨てて、克己心を持って闘うのです。
いつか、この努力が成果につながるという強い意志が必要です。
エジプト・カイロのホテルのプールサイドで年末を迎えたことがあります。
真夜中の24時の近くになると、カウントダウンが始まりました。
沢山の各国の人が集まって、「10・9・8・7・6・・・」と、大きな声が響き渡りました。そして、「ゼロ」になった途端に花火が上がり、プールサイドが「Happy New Year」の歓声に包まれました。
ここには、静かに響く「除夜の鐘」はありませんでした。
煩悩の炎を振り払う「無常観の世界」ではないからですね。
世界には、いろいろな価値観と世界観があります。
世界は広く、興味深いことたくさんあります。
好奇心を燃やして、豊かな人生を創造しましょう!
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