映画:「美女と野獣」「ラ・ラ・ランド」「娘よ」「こころに剣士を」

私が、最近みた映画である。

 

文科省が、「学力の3要素」を重視するように指導しているから、それに関連させて、映画評論家が書いていない観点から、背景にあるもの、着眼点書いてみよう。

 

「美女と野獣」

これは魔女の物語である。

 

ディズニーの映画を「たのしいお伽噺だ」と思っていたら、大変な落とし穴がある。

物語のキーパーソンは魔女である。

物語のはじめも、終わりも、魔女が作り出した「予定調和」である。

 

だから映画で、重要な場面でさり気なく登場さしている。

物語全体を取り仕切っているのは「魔女」である。

気がついた人もいるだろう。

 

中世以前のヨーロッパは、全土が森林に覆われていたから、アンデルセンの物語もグリム童話も森の中で展開するものが多い。

 

「美女と野獣」はフランスのお話がベースだという。

 

さて、キリスト教は布教活動を展開する中で、徹底的に仮想敵をつくった。

 

いわゆる「魔女狩り」である。

 

「神=イエス」以外のこの世の統率者を排除した。

そのために、無理矢理に魔女を作り出すこともあった。

罪もない女性が魔女に仕立てられたことも多い。

ジャンヌ・ダルクも魔女だとして処刑された一人である。

 

では飛躍して、もし「神様がこの世界を統率している」と考えたなら、現在の世界をどう見たらよいのか。

トランプ大統領の登場も、ロシアや中国の指導者も、はたまた北朝鮮の核実験も、ISも、神の「予定調和」の一環ではないかという意見を言う人がいる。

 

どのように考えたらよいだろうか?

 

先日、東京都美術館でブルーゲルの「バベルの塔」を見たが、再び塔は崩壊するのだろうか。

核戦争である。

怖い話である。

「美女と野獣」も、魔女を中心に見て、思考を飛躍させると、全く異なる感想に行きつく。「思考力」は、いろいろな発想をよびおこす。

 

「ラ・ラ・ランド」

若い人は、夢をいっぱい持つのがいい。

 

実現可能かどうかよりも、「持つ夢」の方が大切である。

 

最近は、できるかできないか。

その結論が優先して、発想と行動を小さくしてしまう若者が目立つ。

 

「やってみなけりゃわからないじゃないか!」という言葉の意味の重さがわかっていないのだ。

 

受験も同じである。

頑張る以前に「自分なんか・・・!」という言葉を発する人がいる。

生徒から可能性とか野心いうものが伝わってこない。

 

この点、この「ラ・ラ・ランド」は、若者が「夢」を実現するためにどんな努力をしたか。諦めなかったか。その努力・苦悩を楽しく明るく表現している。

 

「そうは簡単にいかないさ」という理屈を、さり気なくヨコに置いていくのは、しなやかなジャズ音楽と魅力的なダンスがあるからだろう。

 

「夢」と、5年後の「現実」とをつなげる強引な「結末」に無理があるけれど、編集上の制約あってのことだろう。

年配者の私から言わせれば「まだまだ、この結末は甘いよ。人生はそんなもんじゃない。まだ続きがあるよ」というところである。

 

単発ミュージカルだから、これでいいだろう。

若い人が、挫折にめげず、妥協しないで「夢を追いかけるストーリー」だから、多少の無理があってもいい。

 

夢がない若者には魅力がない。

 

諦めるのはいつでもできる。

諦めないのも「判断力」の1つである。

私の人生の結末も、まだずっと先である。

どうなるかわからないから「夢」を追い続けるのである。

「まして若者をや!」である。

 

娘よ!

10歳の娘を60歳過ぎた山岳部族のボスと結婚させる。

 

そこから母と娘が逃げ出すストーリーである。

パキスタンの映画であるが、実際に、現在もなお「幼児婚」が行われているという。

 

こうした地域があることを知っていれば、ヒマラヤの風景と色鮮やかな民族衣装が美しいというばかりではいられない。

 

私は、若いころにパキスタンに行って、映画の舞台の1つになっているラホールの街を歩いたことがある。

そこは風塵が舞い飛ぶ雑踏の街で、人々の暮らしに、「貧富の差」が深刻に見えるところだった。

 

いまは政情不安で、とても行けないが、依然として課題が山積していると聞く。

 

私は、気楽に「ガンダーラで仏像のルーツを観よう」と旅したに過ぎなかったが、そのようなわけにはいかなかった。

 

また、ネパールの首都カトマンズに長く住んでいた知人が、ノンフィクション小説で同様なテーマを書いている。

 

これからの学習には、こうした広い視野と関心が必要である。テーマを「表現する力」をつけなくてはいけない。

 

「こころに剣士を!」

バルト3国・その中のエストニアを舞台にした映画である。

 

1950年初頭、ソ連の秘密警察に追われ、田舎町で小学校の教師として身を隠す元フェンシング選手の話である。

彼が、身の危険を顧みず子供たちにフェンシングを教え、「勇気を与えよう」とした実話をベースにした映画である。

 

その結果、彼は逮捕され「収容所」におくられる。

が、この学校もフェンシング部も、現在もあるという。

 

エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト3国は「風光明媚な港」を持った小国である。

ヒトラーに占拠され、スターリンとの取引でこの国の人たちの運命と生活は蹂躙された。

 

だから、この映画のような悲劇は沢山記憶されている。

 

さて、最近の国際情勢の中で、NATO とロシアが激しく対立し、バルト3国の独立が危うくなったというニュースが伝わっている。

 

ロシアが「凍らない港」の確保を狙っているからだという。

こうした情報を得ると、この映画のような悲劇が、再び起こらないとも限らない。

「グローバルな世界」である。

 

私たちにとって遠いようで近い話である。