私はチェコに2回行ったことがある。
1回目は社会主義政権の時である。
この時はミュシャの「スラブ叙事詩」の存在さえ確認できなかった。
2回目はソ連が崩壊し、チェコスロバキアという国家が解放された後であるが、この絵画を観ることはできなかった。
なぜか?
実は、この中に「絵画の運命」と「画家の悲劇」があるのだ。
絵画とその背景にある歴史・文化をコメントしてみよう。
学力3要素でいえば「表現力」である。
女性なら、「こんなに美しく描かれてみたいだろうなぁ」・・・
ミュシャは、女性を中央に据えて、草・木をアラベスクで取り囲んだ繊細で華麗なデザイン画を得意とした。
彼の「とろけるような」、「しびれるような」グラフィックデザインは一世を風靡し、アールヌーボの旗手になった。
これはイラストレーションに属するもので、ミュシャはパリの有名な女優のポスターを描いて有名になった。
「四つの星」「四季」など日本にもファンが多い。
彼の華麗な作品は、堺市の美術館にたくさん収納されているが、私がフラリとはいった三島市の喫茶店も「ミュシャの作品だけ」が飾られていた。
そうしたファンが、この展覧会場にたくさん来たのではなかったか。
とすると、今回の展覧会は、随分、異なるイメージで驚いたのではなかったか。
アールヌーボとは、「新しい芸術」という意味である。
ギリシャ・ローマの芸術を理想とする古典的な美術から、バロック様式・ロココ様式と「美の歴史」はいろいろな変遷をした。
この流れから「新しい芸術運動」として展開したのが、アールヌーボの芸術家たちである。
彼らは「新素材の鉄やガラス」などを利用して装飾性の強い作品を創造した。
私が好きなのは、ガラス工芸のガレ、「接吻」などの作品で有名なクルムト。
スペインのガウディの建築である。
この中で、グラフィックデザインの分野で、一番大きな影響を与えたのがチェコ出身のミュシャであった。
これらに「ジャポニズム」とよばれた浮世絵が影響したことも覚えておきたい。
「スラブ叙事詩」は華麗とは正反対な絵画である。
パリの成功を捨てて、ミュシャは故郷に帰った。そこで16年をかけて「スラブ叙事詩」を描いた。5メートル×8メートルの巨大な作品を20枚である。
アメリカの富豪がパトロンだった。
スラブ民族というのは、スラブ語を話す人々のことである。チェコやロシア・ポーランドに居住する人々を指す。
ゲルマン民族の一派が支配者として侵入しスラブ民族が戦った歴史などを背景にした膨大な物語を、絵画で表現したものである。
彼はスメタナの『わが祖国』に刺激されてこの絵を描いたという。
「なんで、教会でお説教をしている人の話を聞いているのかしら?」
と私の背後から若い女性の声がした。
満員の展覧会場は熱気に満ちていた。
「身を乗り出して、一生懸命に何を話しているのかしらね。」
「何があったのかしら?」
描かれているのは、宗教改革の先駆者であるフス。
ハプスブルグの支配に抵抗してスラブ民族の独立運動をリードした聖職者である。
彼を知らないで、この絵画を観ても「意味が解らない」のではないかと思ったが、黙っていた。
むかし、私がプラハの広場で見た光景は、ソ連軍に反発するチェコの学生たちを押さえつけるソ連の戦車群だった。
怖かった。
「スラブ叙事詩」は、チェコ人の「愛国心を鼓舞する」という政治的主張を描いているとい
う理由で、ミュシャは「ヒットラーの拷問」を受けて死んだ。
78歳である。
そして、スターリン・共産党の支配下でもこの絵画は「拒絶された」。
これが、私がチェコに行った時「スラブ叙事詩」を観ることができなかった理由である。
首都プラハの街は、特に美しい。モルダウ川に架かるカレル橋には28の聖像が据え付けられている。
しかし、チェコの歴史は「権力と矛盾」を、いまもなお背負ったままである。
「スラブ叙事詩」の背景を理解するには、
最近亡くなったポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダー監督の映画「残像」を見るといい。
ここにはソビエト連邦の社会主義支配の下で「表現の自由のために戦った画家」が描かれている。映画館で観ることができない人は、ユーチューブの予告編を勧めたい。
ミュシャの悲劇と、この絵の運命を理解することに役立つと信じる。
学力の中の「表現力」は、甘いものだけではない。
自分の意志を「言葉」・「音楽」・「絵画」・「映像」・「劇作」など多様な形で表現されることを理解しておきたい。
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