ブラックホールと宇宙の魅力

ブラックホールの撮影に成功したという。

理論上の存在であったものが証明された。

それも世界各国の協力の下で・・・。

天空への想いは、旧い時代から、生活に直結する「暦」の作成と繋がっている。

季節の移り変わり、種まきの時期など、「暦」を知るものが権力をにぎった。

17世紀に入って「望遠鏡」が発明されて天体観察が変わった。

さて、今度の国際協力が、「未来をどのように変えていく」のだろうか。

今回は、「天体・宇宙とその魅力」を振りかえってみよう。

 

ブラックホールとは

夜半に散歩していると「毎日が月夜ばかりじゃないのよ」と妻から笑われます。

最近になって、ようやく「月は毎日出るのではない」ことが分かってきました。

都市のネオンになれすぎた「眼」には、星も月も同じように見えていたのです。

「今日の月が昇ったのは14時だったから・・・散歩中は夜空に見えないよ」

「あれは人工衛星。光が強いでしょ。あれは飛行機。光が動いているでしょ」

「みんな一緒にしちゃダメですよ」と注意される。なるほど・・・。(笑)。

光が届かない公園で、夜空を見上げる。

「何万光年も昔の光がいま届くんだね」

 

ブラックホールの報道写真を見ると、その魅力の中に引きずりこまれます。

ブラックホールとは、「あらゆる物質や光が吸い込まれて、脱出できなくなる天体だそうです」が、今回撮影出来たものは、オレンジ色をしたドーナツのような魅惑的な写真でしたね。

正直いえば、私も「ブラックホールが何なのか」わからないので、報道されている解説をアレンジしてみます。

 

撮影されたブラックホールは地球から、約5500万光年はなれた、「おとめ座のM87銀河の中心」にある「太陽の約65億倍の質量をもつもの」だと言われています。

周囲を取り巻く光の環の大きさは、約1000億キロメートルで、「太陽系がすっぽり入る」そうです。

「重力」が非常に重いので、宇宙で最も早い光でさえも引き込まれて逃げ出すことができないというのです。

光が出ないので「その姿はみえない」。

だからブラックホールのある場所は「黒い影」のように映るのだそうです。

 

銀河系の向こうだなんていわれると、私にはアニメで、<ささきいさお>さんが唄う『宇宙戦艦ヤマト』・『銀河鉄道999』とか、宮沢賢治さんの『銀河鉄道の夜』です。

『星めぐりの歌』は、高倉健さんの『あなたへ』という映画でも使われていましたが、私には<元ちとせさん>の唄がいいと、なっちゃうのですが、『真っ赤なスカーフ』の歌詞はロマンがありますね。甘いかな?(笑)

 

古代ギリシャのターレスは、上空ばかり見ていたので「溝」に落ちてしまい、近くの人に馬鹿にされたという話が伝わっています。

また,「生活に役に立たない勉強ばかりやっているから貧乏なんだ」と言われたので、星座の動きを観察して「今年はオリーブが豊作だ。圧搾機械を借りしめて稼いでやろう」といって、大金持ちになったというエピソードもあります。

 

最近は「勉強することは、金儲けのためだ」という風潮が強いですが、ターレスの話は、いろいろなことを示唆していますね。カネもうけが全てじゃない。

 

宇宙への憧れと探求

ブラックホールの撮影には、「地球サイズの巨大な望遠鏡(ELT)」が必要だったといいます。

だから、ハワイ・メキシコ・アリゾナ・スペイン・チリ・南極など世界中の8つの電波望遠鏡を結合させて撮影したと聞いています。

まさにグローバリゼーションの典型で、狭い「自国中心主義」ではかなえられないことですね。

空気が澄んでいる高地でなければ、微妙な「人間の視力の300万倍」の光をキャッチできないというのですから、科学者の方々の粘り強い努力と多様な才能に敬服しますね。

短絡的な「儲け」にならないことに賭ける情熱が、「学問の本質」ですね。

 

ブラックホールの存在は、アインシュタイン博士の「一般相対性理論」から導きだされたものだそうです。

これから、どんなことが解明されて行くかわかりませんが、若い皆さんの時代の「ロマン」です。

功利的なものだけを求めず「活躍の場」をドンドン広げていってください。

いま、JAXAが「はやぶさ2号」で行っている小惑星「りゅうぐう」での実験は画期的なものでワクワクしますね。こちらも凄いです。

 

歴史を振り返ると、天文学は「宇宙への憧れ」よりも、現実的な「生活のレベル」で発達しました。

例えば、ナイル川の氾濫時期を知るために、エジプトの歴代王朝は星の観察をしましたし、砂漠の中のサマルカンドにも、高度なウルグ・ベク天文台がありました。

メキシコ・マヤ文明のチチェン遺跡そのものが「暦」であることは、みなさんが知っている通りですね。

1年は365日と何時間を割り出していたのです。

天体観察と人間生活は切り離すことができないものだという証明です。

 

ところで、紀元前310年頃に活躍したサモス島のアリスタルコスは、太陽中心説(地動説)を主張しました。

地動説はコペルニクスが最初ではありません。

しかし、宇宙への関心は、17世紀の「望遠鏡」の発明を待つしかなかったです。

宗教的な制約がきびしく、科学としての天体・宇宙への窓口が抑えられていましたからね。

ガリレオやケプラーの望遠鏡による天体観察も、弾圧・拒否・幽閉など大変な苦労の中で進められたのです。

 

ちなみに、日本では『源平盛衰記』に月食のことが「水島の戦い」のところで出てきますね。

「平家の人は暦を作成していた」から月食を戦いに利用しましたが、木曽山中からでてきた源氏は知らなかったので「この戦いは敗戦」したという記録です。理系の人も古典の学習を省いてはいけません。

 

さて、私たち人間は、どこから来て、どこに去っていくのでしょうね。

仏教の「五蘊(ごうん)」では、やがて肉体は5つに分解されて宇宙に散っていくといっています。

私たちの生命もブラックホールの中に吸収されて行くのでしょうか。

「信仰と科学」とは異なる。

これではガリレオになってしまいますね。

 

これ以上は、読者の皆さんが考えてください。皆さんに期待しています。